2009年07月04日

映画「鶴彬−こころの軌跡」上映

当ブログの筆者・木村哲也氏より、
鶴彬関連の新聞記事のコピーが送られてきた。
朝日新聞2009.6.18付け13面「オピニオン」の「ザ・コラム」欄、
題「享年29。断ち切られた生──多喜二と鶴彬」(編集委員・外岡秀俊)
まさに温故知新、今年鶴彬の生誕100年とはいえ時代は近い。
状況は当時の軍国主義の社会が経済主義に変わっただけだ。
軍事と経済は資本力がものをいうもので、表裏一体糾える縄の如しだ。
殊に60年代の学生を中心とした政治運動や文化活動もそうであったが、
お仕着せの社会の傲慢さに抗ったのは若者だ。
大人社会に反旗を翻した果てに死した若者の実直さ、
そして誠を想っての本音での言動は尊い。
小林多喜二と鶴彬はペンをとって戦い、
体制によって命を落とされた青年だった。
多喜二は小説で、鶴彬は川柳という違いこそあれ、
正に命がけの表現活動だった。反軍国主義活動の結果だった。
ならば現代において反経済主義活動は如何に。
外岡秀俊氏の書いた記事の冒頭の切り口に答えを見る。
現実は、反経済主義活動などという主体的なものではなく、
社会の経済活動に振り落とされる人々の実態ありきだと思う。

たいへん有意義で有難い記事だが、
私の拘りとして腑に落ちない箇所があった。
4段目の始め「〜その多喜二の死から5年後、やはり29歳で
無残な死を遂げた詩人がいる。川柳作家の鶴彬(つるあきら)だ。」
一般的には何ら問題はない文章の意味内容だが、私見では、
“詩人がいる”が不要で、“川柳作家がいる”と直結してほしい。
鶴彬は初期においてこそ抒情性のある川柳をしたためたが、
本領を発揮したのは時の軍事体制の社会を批判し戦う川柳だ。
川柳冥利に尽きる作家と作品だ。
詩人と冠すると強烈な川柳精神が下位概念となって霞んでしまう。
私論ながら、川柳は俳句の一形態であるので、“俳人がいる”なら肯える。
世界には様々な詩があり、その背景があるが、
特に日本発の俳諧・俳句・川柳等は、
一般的な「詩」とは括らずに「俳」という独自の概念を打ち出したい。
上位概念や対立概念ではなく、共立概念として。
詩は俳の上位概念ではなく、自立した俳を認識したい。
俳句も川柳も俳の精神に裏付けされる。俳本位を提唱する。
わが批判の矛先は軍国と経済ではなく、本件では文芸だ。
俳の手柄を詩に搾取されてはならない。

…ということで、
多喜二と鶴彬の精神にあやかって結びつけたかと思う。

カチンコ 元に戻って、記事では、映画「鶴彬−こころの軌跡」を紹介している。

享年29。断ち切られた生──多喜二と鶴彬
↑イメージの記事はクリックして拡大し、左側から読んで下さい。

▽続きを読む<映画情報>於東京東中野
posted by Jiken at 08:13| Comment(1) | TrackBack(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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